平安時代中期に創建された隨心院は山科区の小野地区にあります。小野地区にあることから小野小町とのゆかりがしきりに語られるのですが、実は小町以外の小野氏との繋がりはほとんど見られません。一点突破の伝説が起こしがちの牽強付会、隨心院と小町の関係もそのあたりにあるのではないでしょうか。
京都市の地下鉄東西線は、山科に入ると東西ではなく南北に走るようになります。南北なのに東西とはこれ如何に?なんて言い出すと大喜利めいてしまいますが、その南北に走る東西線の中に小野駅があります。
市営地下鉄で小野駅絡みの話を始めると、二次元キャラクターの小野ミサを思い出す人もいるかも知れません。しかし、地下鉄応援キャラは措いておくことにして、まずは小野という地域に関する話から始めましょう。
山科南部の小野は、古代豪族の小野氏が勢力をもった土地であり、姓が地名となったともされています。ただ、小野という地名は京都の中では他にも少なからずあり、山科の小野だけを小野一族の土地と限定するにはいくつか難しい事情があるようです。それでも、平安時代に小野地区に創建された古刹、隨心院が小野小町旧宅であると信じられてきたように、伝説の領域では小野一族ともっとも繋がりのあるのが、山科の小野であると言ってもよさそうです。
ところで、小野一族とはどういう氏族だったのでしょうか。古代史の細かいところは省きますが、一族に名を連ねる有名どころを挙げるとすれば、まずは小野妹子でしょう。しかし遣隋使で有名な妹子は近江国滋賀郡小野村の豪族とされており、山科小野地区との繋がりが語られることはありません。
また妹子の子である毛人の墓誌が左京区上高野の山中より発見されており、ここでも山科小野地区との関連は浮かび上がってきません。
次に小野姓の人物がクローズアップされるのは、時代が下って平安時代のこと。百人一首の参議篁こと小野篁です。篁は奇才をもって知られる人物で「子子子子子子子子子子子子」を「猫の子、子猫、獅子の子、子獅子」と読み解いたことや、昼間は官人として朝廷に仕え、夜になると地獄に行って閻魔庁に出仕していたとかの伝説が語られています。
飛鳥時代の妹子とは異なり、篁の頃になると関連する史料も増えてきますが、それでも山科小野地区との関わりが明示されるわけではありません。
そのことは篁の孫ともされる能筆家、小野道風の代になっても変わりません。花札の「柳に蛙」のモチーフになるなど個人としての有名度は抜群ながらバックグランドに関わる明確な情報はほとんど知られていないのです。
平安時代の中期、一条天皇の時代に仁海上人によって創建された曼荼羅寺、そして平安時代の末期にその子院として建てられた隨心院、時代がくだっていつしか境内全体が隨心院と呼ばれるようになり、荒廃と再建を繰り返しながら江戸時代の本格的な再建を経て現代に至るというのが史料的に裏付けの取れる隨心院略史なのですが、そうした隨心院からのアプローチでも山科小野地区や小野氏との必然的な繋がりは判然としません。
ところが、これが小野小町になると、やたらと山科小野地区との関連が言われるようになります。小野小町は生没年も不詳ながら、年代的には道風と大きくずれているわけではないとされており、道風と同じ、篁の孫とする説もあるくらいです。それであれば900年頃、10世紀前半の人物と考えて構わないでしょう。隨心院の創建年代に比べると随分はやいのですが、隨心院こそが小野小町の邸宅であり、小町作と伝える文張地蔵や化粧井戸、文塚などが境内には残されています。
しかしながら、ここまでの話で明らかなように、結局はこれらすべて後代に作られた伝説であり、地域と小野氏との関係も結局は地名と姓の一致以上の根拠は出てきません。
とはいえ、だからといって小野小町まわりの話をデタラメと切って捨てることができないのが伝説の伝説たるところ、地名の小野には小野小町を呼び寄せる吸引力があり、隨心院を小町旧宅と見たてたり、謡曲「通小町」などに描かれる深草少将の百夜通いの舞台を隨心院にしたり、さらには隨心院で2月に行われるはねず踊りの由緒を小町に求めたりするのも、この謎の求心力のせいということになるのではないでしょうか。
ところで、今回の話を始めるにあたって、地下鉄応援キャラクターの小野ミサにも触れましたが、なぜ小野駅がピックアップされたのでしょうか。山科界隈を取り上げて、いかにも実在していそうで自然な名前にが作ることのできる駅名というだけなら、石田駅でも東野駅でもよかったはずです(太秦天神川駅から太秦萌を作り出すくらいなので自然さは重要でなかった?)。それでもやはり小野駅だったのは、これまた小野小町への吸引力が無意識のうちに働いていたのかも知れません。