宝鏡寺は春秋の人形展で有名なお寺です。開催のタイミングが観光シーズンと重なることもあって、サクラとモミジを際立たせる宝鏡寺の人形展といった捉え方がされることもあるくらいです。また古い京人形の展観だけでなく、種々の理由で手放すこととなった人形の供養、いわゆる人形供養を行ってもらえる場所としても知られています。
人形をめぐっては、個人史的なものから集団史的なものまで、さまざまなドラマが紡ぎ出されます。古墳時代の土偶もそうですし、現代ではホラー系の小説や映画、あるいはアニメなどでも人形が有意な立ち回りを見せるものも少なくありません。これらは、人間が年月を重ねるなかで人形との間で交わされる縁が深いことの現れでしょう。
全国レベルで探してみると、いわゆる人形供養を行う寺院は少なからず見つけることができます。
京都もその例外ではありません、むしろ千年の長きにわたって宮都として君臨してきた街であるだけに、全国的に有名な人形供養のお寺があります。それが人形寺の異名で知られる宝鏡寺です。
上京区の堀川寺之内にある宝鏡寺は、百々御所とも呼ばれてきた臨済宗の尼寺門跡です。足利義満が将軍職について執柄を握っていた頃、京都御所に安置されていた観世音菩薩像を一人の禅尼が譲り受け、 とある僧堂に安置しました。
禅尼の名前は華林宮惠厳、北朝光厳天皇の皇女であり、尼五山(京内の尼寺に与えられた寺格)の筆頭、景愛寺の住持を務めていました。そして彼女が観世音菩薩を安置した僧堂に対し、後光厳天皇より「宝鏡寺」の名前が授けられたのでした。この名前は、祀られた観世音菩薩像が小さな円鏡を持った姿をしていたからと伝わっています。
以来、宝鏡寺は尼五山筆頭の景愛寺の末寺として崇められるようになり、江戸時代の初期に後水尾天皇皇女の理昌女王(久厳尼)が住持となってから後は、代々皇女が住持を務めることが習いとなって尼門跡百々御所と呼ばれるようになりました。
皇女が住持を務める関係から、ひな人形をはじめ、御所より送られる人形が多く所蔵されるようになり、いつしか人形の寺と呼ばれるようになりました。
この宝鏡寺に対し、異名「人形寺」が確立されるのは、さらに時代が下った昭和時代になってからのことです。代々の尼住持が愛してきた人形が保管されていることは、知る人ぞ知る事実でしたが、一般に公開されることは久しくありませんでした。公開の要望が次第に強くなっていた昭和30年代、春と秋に一般公開を行うようになって人形寺の異名が広く行き渡るようになったのでした。そしてほぼ同じ頃より、一般より寄せられる人形の供養も法要として行うようになりました。
ところで、京都の伝統工芸の1つに京人形の制作があります。これは行程を細分し、各行程に専門職人を配する形で受け継がれてきた技術です。歴史的な背景として、王朝時代より需要があったことや、江戸時代以降の泰平の時代にはより公家だけでなく商家の子女からの求めもあってより洗練された技法が発達したことなどが挙げられます。昭和になってからは業者の組合も結成され、技術の継承や制作された人形の管理も体系的に行われるようになりました。宝鏡寺で開かれる人形展および人形供養に京人形商工業協同組合としての関わりが深くなっていったのも必然的な流れでした。
このように、宝鏡寺では春秋の二度に行われる人形展ですが、ちょうど京都の観光シーズンと重なることもあって、桜・紅葉とのマッチングで人形を際立たせるテーマが設けられることも行われています。こうして京都の年中行事として、あるいは春および秋の彩りとして広く知られるようになったのが、宝鏡寺の人形展です。
京都で人形供養を行うのは、この宝鏡寺だけではありません。宝鏡寺の場合、伝統的な背景もあって京人形が対象になるのですが、もう1つの人形寺こと粟嶋堂宗徳寺(下京区堀川通塩小路西入)では、幅広くぬいぐるみも含めて人形全般の供養を行っています。
宗徳寺自体は室町時代に開かれた浄土宗のお寺です。寺伝によれば、宗徳寺は室町時代前期の応永年間に行阿上人が開いたといい、粟嶋堂は南慶和尚が紀伊国の淡島神社より勧請して祀ったのが始まりとされています。
この淡島明神は女人守護の霊験でも知られる神さまなので、粟嶋堂で人形供養の行われるようになったのも、そうしたあたりと関係があるのかも知れません。詳細は報告されているわけではありませんが、最近では女人守護から派生的に始まったのでしょう、人形供養のお寺としての評判も高くなりつつあるようです。
詳細はさておき、堀川塩小路の境内を訪れると、さほど広くはない敷地の片隅に設けられた人形舎に安置された各種人形(京人形もあればフランス人形やキューピーなどのセルロイド人形もあります)が不思議な存在感を漂わせています。