京都の西に隣接する長岡京市、観光面でも注目される西山三山を含むこの街の魅力を大々的にピックアップ

京都市外の混雑が耐えられない、そんな気持ちが強くなってくると、周辺の街にターゲットをスライドさせるのも悪くありません。粟生光明寺などを擁する長岡京市は、スライド先としては絶好の場所です。

華やぐ桜の春、紅の燃える秋、それぞれに季節の彩りが美しい時季を見計らって観光名所に足を運んでみようと思うのは、多くの人々の間で共通するところです、そうすると必然的に人気スポットと呼ばれる場所では、とんでもない混雑が発生してきます。そんな傾向が一般化してくると、それなら人混みのない「穴場」はどこなんだろう?と考える、これもまた人の世の常態と言っていいでしょう。 確かに、穴場と呼ばれる場所をあちらこちら探ってみるのも悪くはありませんが、京都全体が世界でも屈指の観光都市となった今日、京都の中でばかり穴場を探しては、どうしても限界が出てきます。それなら思い切って「京都」という枠組みを外してしまう勇気があってもいいのではないでしょうか。 京都市を中心に考えた時の、いわゆる近郊の観光スポットにターゲットを移すという判断です。

[長岡京市の魅力]

北は三尾や大原、南は伏見稲荷大社、東なら清水寺や醍醐寺の辺り、そして西なら嵐山や松尾大社あるいは鈴虫寺、だいたいそうしたエリアの内側に含まれるのが一般的な京都観光のターゲットです。 それらに対して枠組みに縛られないというのなら、北なら花脊峠を越えて久多や周山街道の先の京北(ちなみに久多も京北も行政区分の上では京都市です)に向かってみるということになるでしょうし、東なら石山寺のある大津市、南なら石清水八幡宮を念頭においての八幡市だったり、平等院狙いの宇治市といったところがターゲットになってきます。 そうして西に向かうのなら粟生光明寺や楊谷寺などがある長岡京市がお奨めです。長岡京市にはこれ以外にも、聖徳太子ゆかりの乙訓寺や春にはツツジが美しいことで知られる長岡天満宮などの観光名所がありますし、微妙に京都市側に戻ってしまいますが、西山三山の一角をなす善峯寺、あるいは花の寺として名高い勝持寺なども近傍に含めることができます。 善峯寺などは人気も高いので、天候やカレンダー事情次第では雑踏回避という当初の目的を果たせない可能性がないわけでもありません。しかし、たとえ混雑していたとしても、嵐山の渡月橋界隈や東山の清水寺門前などに比べるなら、かなり恵まれた状況になることが想像できます。

[敦盛最期]

さて、そうした形で周辺地域にスライドさせた観光スポットですが、ここでは粟生光明寺を取り上げてみましょう。浄土宗西山派の総本山となるお寺で、歴史的なところで振りかえるのなら、熊谷直実の発心が創建の由緒となったのが有名な話です。平家物語の名場面として記憶される「敦盛最期」のくだりです。 板東武者の熊谷直実は戦の場でも勇名をとどろかせ、日々手柄を求めて戦っていました。一ノ谷の合戦でも平家方を蹴散らし、敵将を追っていたところ出合ったのが清盛の甥にあたる平敦盛でした。敦盛は平経盛の末子で、この時わずか15歳。「敵に背を見せるのは卑怯なり」と大声での呼び掛けに応じて戻ってきた敦盛を組み伏せ、その首を掻こうとした直実でしたが、相手が年端もいかない美貌の少年であることに気づき、躊躇います。それに対して早く首を刎ねよと命じる敦盛、背後より源氏方の兵が迫ってきていたこともあって涙ながらその首をとった直実。後に相手の名だけでなく、その所持品にあった笛によって、毎夜陣中より聞こえていた笛がこの少年の奏でるものだったことも知り、直実は無常の思いを強めるのでした。 2人の葛藤を語る平家物語の文章は日本文学を代表する名文とも言われ、後の時代の謡曲や幸若舞などにも援用されるようになりました。この敦盛との絡みによって、軍功ばかりを追い求めてきた人生に空しさを覚えた熊谷直実は法然上人のもとで仏門に入り、蓮生という名を得ます。そして当地に念仏修行のための草堂を営むこととなり、これが後の光明寺となりました。ちなみに、光明寺という名前は、この地で荼毘に付された法然上人の遺骨を納めた廟堂が光り輝いたという言われに基づくものです。

[紅葉参道]

この粟生光明寺は、西山派の総本山としての知名度だけでなく、紅葉の名所としても高い評判を得ています。特に総門をくぐって本堂(御影堂)に至る参道のうち、傾斜の緩やかな迂回路の方は紅葉シーズンには紅葉のトンネルとでも言うに相応しい景観になるところから「紅葉参道」とも呼ばれています。他にも御影堂や観音堂の周辺にもたくさんのモミジが植わっているのでシーズンには「全山が真っ赤に染まる」というのもあながちな誇張ではありません。