応仁の乱で西軍が陣をおいたことから地名が生まれた「西陣」。観光目線での緩め解釈ではその範囲は広がりすぎる傾向もありますが、厳しく限定的に捉えると、それはそれでマニアック色が強くなりすぎるキライも。ほどよいところでバランスをとれば、有意義な西陣探索が楽しめます。
西陣とは西軍の陣地の意。つまり京都の歴史を語る上で避けて通れない大事件、京都を焦土と化した応仁の乱に際して、西軍を率いた山名宗全が本陣を置いた地のことです(ちなみに細川勝元が陣を構えた今出川新町は東陣とは言いません)。大乱の終結後、ほどなくして「西陣」という言葉が地名として用いられるようになっているので、その界隈には人々が寄り集まる必然的な理由があったものと思われます。それが何だったのか、常識的な範囲で考えると、大乱以前よりこのエリアを中心に生産と集住が始まっていた織物業者関連の事情でしょう。
大乱の勃発を受けて織り手らは奈良や和泉方面に避難しますが、状況が落ち着くに伴って旧地への回帰が始まります。そうした際に「西陣」という言葉が地名として定着していき、ひいては西陣織という呼び名での絹織物が製造されるようになったのだと思われます。
現代の観光目線で西陣を眺めると、その範囲は北は鞍馬口通の辺りから南は丸太町通の辺りまで、東西は堀川通から西大路通の辺りまでとかなりの広いエリアを含みます。しかし、これは「西陣」という言葉が観光的に有意義になることもあって、過分に広められた捉え方です。地元での感覚に照らすともう少し限定的になる場合もあります。具体的にはなかなか難しくなりますが、山名宗全の本邸跡として石碑が置かれている上京区堀川通五辻西入るや西陣織会館のある堀川今出川、あるいは寺之内通浄福寺下るの織成館がある界隈などは文句なしの西陣です。また小さな飲食店が軒を連ねて「西陣京極」の名を掲げる路地がある千本通の西側で一条通と中立売通の間のエリアも西陣といって異論は出ないでしょう。そういった象徴的なスポットのある界隈を中心にして西陣を認定するのならともかく、北側や西側を拡大解釈していくのは抵抗を感じるところでもあります。とはいえ、もともと厳密な線引きが馴染む話でもないので漠然とした捉え方をするしかないのが実情です。
さてそうした西陣界隈ですが、このエリアに含まれる観光スポットを紹介するとすれば、どうなるでしょうか。実はこれがまたいくらかややこしい話になってきます。というのは、京都の観光スポットのメインストリームは「平安時代には云々」といった具合に歴史のある神社仏閣が中心になっているのに対して、西陣界隈にはそうしたスポットが少ないからです。広いエリアを指し示す「西陣」という名前は有名でも、ピンポイントでピックアップされる場所は多くないという不思議な現象が起きているのです。
戦国時代に京都で勢力を誇った日蓮宗(法華宗)の諸寺は西陣界隈にたくさんあるので、訪れるに値するスポットが少ないと言っているのではありません。探せばたくさん出てくるそうした諸寺は、世界遺産に登録されている清水寺や金閣寺のような観光情報的に分かりやすいスポットにはなっていないということです。
それを承知の上で相応にマニアックなアンテナを働かせると、長谷川等伯の襖絵や庭園の一般公開を行っている妙蓮寺(堀川通寺之内西入る)、本阿弥光悦作庭の巴の庭などで知られる本法寺(堀川通寺之内)などが網に引っかかってくることでしょう。これらは手軽なガイドブックでは取り上げられることの少ないスポットなので、探す側にもそれなりの知識と熱意が求められてきます。
そうした方向性でさらに掘り下げていくと、観光客向けの整備をしているわけではないながら一般に公開されている範囲で桜や紅葉が綺麗なスポットというのも見えてきます。西陣の聖天さんこと雨宝院(上立売通智恵光院西入る)もそうした場所の一つで、マイナーなお寺さんお宮さん巡りを趣味にしている人々の間では高い人気を誇っています。
ここまでの文脈では、清水寺や金閣寺のようなスポットがないので西陣を楽しむのは難しいという流れになっていますが、分かりやすいスポットが皆無というのでもありません。北野天満宮などは紛れもなく西陣に含まれていますし、西陣織会館のすぐ横には、情報発信にも積極的な晴明神社があります。これらが西陣にある有名どころになっていて、桜や紅葉の時季にはたくさんの観光客を受け入れています。そしてその傍らでは、ややマニアックな目線での掘り下げが求められる小さなお寺やお宮さんがたくさんあり、そういった場所では観光スポットには付き物の雑踏からは解放された時間を楽しむことができるようになっているのも西陣の魅力といっていいでしょう。