天下人・豊臣秀吉公の出世にあやかりたい「豊国神社」

慶長3年(1598)、伏見城で63年の人生に幕を閉じた豊臣秀吉公。遺命によって、翌年、東山の阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)に葬られ、慶長4年(1599)に廟と社殿が造営されたのが「豊国神社」の始まりとされています。創建当時は荘厳な社殿だったものの、慶長20年(1615)の「大坂夏の陣」で豊臣氏が滅亡するや、江戸幕府によって廃されました。現在の社殿は明治13年(1880)に再建されたもので、秀吉公を祭神に祀り、出世や勝運にご利益があるといわれています。


参道正面にある唐門は国宝三唐門に数えられ、太閤となった秀吉公が隠居生活を送った伏見城の門の遺構。桃山時代の豪華絢爛な建築の代表格で、左右にある8基の慶長燈篭は創建当時の遺品だといわれています。また、摂社貞照神社には秀吉の正室である北政所(きたのまんどころ)が祀られ、お正月の三が日のみに参拝することができます。

「登竜門」にちなんだ彫刻を見つけてみてください


唐門の扉には「鯉の滝登り」の彫刻が施されています。竜門の滝を登り切ると龍になる中国の故事「登竜門」にちなんだもので、この門をくぐることで出世にご利益があるとされているとか。普段はこの門をくぐることはできませんが、特別参拝などの際に開かれます

大正時代の貴重な近代建築も見事な「宝物館」


また、大正14年(1925)に開館した「宝物館」には、秀吉の遺品を納めた重要文化財の唐櫃(からびつ)や狩野内膳筆の「豊国祭礼図屏風 など、秀吉公や神社に関する文化財が収蔵されています。桃山時代風の建物は武田五一による設計で、当時まだ珍しかったコンクリート造という貴重な近代建築。展示のケースには大正時代のガラスがはめ込まれているなど、開館当時の姿が残されています。

鈴なりに吊るされた「ひょうたん」絵馬


秀吉公が合戦の際の馬印にし、戦に勝利するたびにひとつずつ増やしていったという「千成瓢箪(せんなりびょうたん)」。天下統一を果たした秀吉公にあやかり、豊国神社には出世や開運にご利益のあるひょうたん型のお守りがたくさんあります。


また、瓢箪型の「ひょうたん絵馬 に願いごとを書いて奉納すると出世できるといわれているとか。唐門前には参拝者の願いが書き込まれた「ひょうたん絵馬」が鈴なりに吊り下げられ、パワーを感じます。

春には早咲きの桜「蜂須賀桜」が見ごろを迎えます


また、武将・蜂須賀正勝(小六)が秀吉公に仕えていたことから、蜂須賀家ゆかりの「蜂須賀桜」が近年植えられ、隠れた桜の名所としても知られています。

旧豊国神社の遺跡「豊国廟」

秀吉公は豊国神社の飛地境内である阿弥陀ヶ峰の山頂で眠っています。秀吉公の遺体が埋葬された翌年に社殿が造営され、豊臣氏の滅亡後は荒廃していましたが、明治30年(1897)、秀吉の300年忌に廟宇が再建されました。現在は「太閤坦(たいこうだいら)」と呼ばれ、拝殿と廟務所があり、拝殿から500段ほど石段を登った頂上に秀吉公の墓所「豊国廟(とよくにびょう/ほうこくびょう)」が鎮座。墳上に巨大な石造の五輪塔が建てられています。

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豊国廟(とよくにびょう/ほうこくびょう)
●京都市今熊野北日吉町61-1 ●市バス停博物館三十三間堂から徒歩20分(ふもとまで)

境外には「耳塚(鼻塚)」と呼ばれる五輪の石塔も


また、豊国神社を出て西にある「耳塚(鼻塚)」と呼ばれる巨大な五輪の石塔は、京都に現存する秀吉公の遺構のひとつといわれています。 天下統一を果たした秀吉公は大陸にも支配の手をのばそうと、朝鮮半島に侵攻。これが文禄元年(1592)~慶長3年(1598)の「文禄・慶長の役 であり、日本軍が戦功の証として持ち帰った朝鮮軍の耳や鼻を埋葬し、秀吉公の命によって供養したのが始まりだとか。 現在は「史跡方広寺石塁および石塔」として、国の史跡に指定されています。

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耳塚(鼻塚) みみづか(はなづか)
●京都府京都市東山区茶屋町533-1 ●市バス停博物館三十三間堂から徒歩6分

天下人にあやかって出世祈願


農民の子として生まれながら戦国武将・織田信長に仕え、天下統一を果たして太閤にまで上り詰めた豊臣秀吉公。川端五条から七条あたりにかけてゆかりのスポットが点在し、天下人のパワーを感じることができそうです。秀吉公ゆかりの社寺の中でも、「豊国神社」のように秀吉公そのものを祭神に祀る神社は珍しいそうです。

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豊国神社(とよくにじんじゃ)
●京都市東山区大和大路正面茶屋町530 ●市バス停博物館三十三間堂から徒歩5分