山内に歴代天皇および皇族の陵墓を数多く擁し、皇室の菩提寺としての尊崇を集めてきた「御寺」こと泉涌寺。清水寺や東福寺など観光面で目立ちすぎるスポットが近いせいで注目度は控えめながらも、かつての御所より移築された建造物の数々や庭園の魅力は超一級品。謎めいた伽藍構造など、向きあったぶんだけ面白みは深まってきます。
清水寺に東福寺、あるいは知恩院に建仁寺、京都市東山区は行政区の面積としては11区の中ではもっとも狭いながら、観光対象となる寺院はたくさん揃っています。泉涌寺もそのひとつですが、意外なことにその存在は忘れられやすいところも。というのは、知名度の上では京都のナンバーワン・ツーを争う清水寺や、紅葉名所の代名詞とも言える東福寺が近くにあって、多くの視線がそちらにばかり引き寄せられてしまうからです。
泉涌寺が軽く見られているとかではなく、知る人は泉涌寺にもしかるべき視線を注いでいるのでしょうが、おおよその趨勢からいえば、清水寺や東福寺に比べて人気の面ではやや控えめになっているかも、ということです。
そうは言っても、皇室との繋がりが強く「御寺」との呼称を得ていることや、泉涌寺派という宗派の総本山であるなど、ひとたびスポットライトを当てると、歴史的にも文化的にも注目されてしかるべき要素がたくさん挙がってきます。要するに、近くにさらに目映い存在があるばかりに、注がれてしかるべき本来の視線が泉涌寺には届いていない、といったところでしょう。
さてそうした泉涌寺、改めて歴史的なところを振り返ってから観光面での魅力をピックアップしてみます。創建は鎌倉時代とも平安時代とも言われます。これは、泉涌寺としての体裁を整えた月輪大師に注目するなら鎌倉初期となるのですが、その前身である仙遊寺ないしは法輪寺までさかのぼるのなら平安時代初期、空海の時代と言えなくもないということです。
その泉涌寺が皇室かの尊崇を集めるようになったのは、実質的な創建期である鎌倉前期に、後鳥羽上皇及びその第一皇子だった土御門上皇が月輪大師によって落飾したこと、後堀河天皇と四条天皇の陵墓が山内に置かれたことが大きく影響しています。
これより後には、皇室の祈願寺として歴代天皇の葬儀に携わるようになり、江戸時代にはほとんどの天皇・皇后が月輪陵・後月輪陵に埋葬されるようになりました。このように皇室の菩提寺、香華の寺として尊崇を集めてきたことを反映して、大門や御座所など旧御所から移築された建造物も少なくありません。
このうち観光面で特に注目されるのは、御座所に属する庭園、いわゆる御座所庭園です。この庭園には、平安神宮神苑や天龍寺庭園のような広大さがあるわけではありませんが、小さくまとまった小宇宙のような雰囲気を漂わせています。
池泉式の鍵である池水と背後の築山との取り合わせが絶妙なバランスを見せているのに加えて、ドウダンツツジやウメモドキなどの丈の低い木々が御座所の縁から眺める視線に合わせて案配よく配されて穏やかなたたずまいとなっているのです。秋季には赤く染まったモミジが苔敷の緑に紅の斑点を添えた絵画的な景色を見せてくれます。
そうして、この御座所庭園で特筆されるのが泉涌寺型と呼ばれる石灯籠です。大分類でいうと背が低く笠が広いという点で雪見灯籠なのですが、さまざまな灯籠を分類して雪見灯籠というカテゴリーを立てる際の基準によく用いられるのがこの庭園に置かれた一基なのです。つまり泉涌寺の灯籠が雪見灯籠に属するというよりは、泉涌寺の御座所庭園にあるような形態のものを雪見灯籠と呼ぶと言った方が正確ということになります。この背の低い八角形の形状が、近江八景の一つ、堅田の浮御堂に見えるところから訛って雪見灯籠となったとの説もあるくらいなので、シンボリックな石灯籠と言っていいでしょう。
ところで、泉涌寺を拝観する際には、最初に大門のところに立って境内を眺め渡すことになるのですが、この時、正面に仏殿や舎利殿が目の高さに見えることに気付きます。
山門を基準に伽藍が直線上に配置されるのは他の場所でもよく見かけますが(山門−塔−本堂が南北の一直線に並ぶ四天王寺式などが有名)、上下を直線上に配するのはユニークです。
これは大門のある位置がやや高い場所にあって、そこから緩やかな傾斜を下る形で仏殿や舎利殿、御座所に向かう形になっているからです。元よりの地形の関係でそうなったのか、それとも何か意図的なものなのか、考えてみるのも面白いのではないでしょうか。
この他にも、観光面からのアプローチでいうのであれば、泉涌寺山内の塔頭諸院に注目するのもいいでしょう。「二十五菩薩練供養」で知られる即成院や西国三十三箇所十五番札所の今熊野観音寺もゆっくり時間をかけて拝観しておきたいスポットです。