【更新:8月24日現在 紅葉の状態:青紅葉】
テレビCMの影響もあって一躍、人気の紅葉スポットに躍り出た山科毘沙門堂門跡。沿革を掘り下げていけば古代史ロマンの深みにはまることもあれば、ご本尊の毘沙門天と向きあうことでバリエーション豊富な七福神めぐり、さらには霊場巡拝の旅に心が開かれるかも知れません。
山科の紅葉名所、毘沙門堂門跡、すでに何度か登場していますので、本腰を入れてこのスポットを紹介してみます。
言い伝えによれば、毘沙門堂門跡の起源は出雲寺という寺院で、出雲寺があったのは上御霊神社付近。近くでは平安時代より以前にさかのぼる遺跡も発掘されており、それが出雲寺の痕跡ではないかとの推定もなされています。ちなみに現在の鞍馬口通が賀茂川を越えるところに架かる橋は出雲路橋と呼ばれています。これをうけて、この「出雲路」は「出雲寺」に由来するのではないかという推測、さらには古代の渡来部族「出雲一族」の拠点がこの近くだったのではないかという推測などが行われています。これらのいくつかは明確な根拠が示されないまま、可能性の段階で語られる古代ロマンですが、毘沙門堂門跡の前身が平安京以前にさかのぼるという点は抑えておきます。
次に、この出雲寺(?)が辿った歴史について。出雲寺が平安時代の末には荒廃していたことや出雲寺の名前を継承する新しいお寺が出雲路界隈に建てられ、最澄ゆかりの毘沙門天像(伝最澄自刻)を祀ったことなどは、古記録からも確認されます。
その(新)出雲寺もいつの間にか荒廃の運命を辿り、時を経て徳川家康の庇護のもと、江戸時代の初期に再興されています。そして山科安祥寺に属していた荘園の一部が幕府より付与され、17世紀の末には現在地でもあるその地に移転することになります。また、この江戸時代の復興の過程で、皇族が住持を務める門跡寺院となることが認められ、正式に「毘沙門堂門跡」という呼称が使われるようになりました。
そうした毘沙門堂門跡、近年ではJR東海のテレビCMの影響もあって紅葉名所として広く知られるようになっています。とりわけ有名なのが仁王門に向かう石段を真っ赤に染め上げる紅葉の絨毯でしょう。葉の色づきが今ひとつの年は、ちょっとがっかりな景色になることもありますが、それは巡り合わせの問題として諦めるしかありません。その代わり、いい色合いの年に巡り会ったなら抜群の鮮紅を目に焼き付けることができます。
ところで、毘沙門堂という名前は、毘沙門天を祀ったことに由来するのは言うまでもありません。そして毘沙門天とは仏典の上では軍神としての位置づけがあることもさることながら、より身近な感覚でいえば七福神の1人として認識されています。この七福神を改めて列挙するなら以下のようになります。恵比寿、大黒天、福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人、弁財天。
このように七福神の名前を並べると、次には全国各地で行われている七福神めぐりを思い出してしまう人も多いのでは?
もちろん京都も例外ではなく、それぞれの福の神を祀る寺社を参拝することで福が招来されるとされてきました。では、それぞれのお寺とはどこなのでしょうか。この文章は山科毘沙門堂を紹介する文章なので、毘沙門天は毘沙門堂で決まりとなって欲しいのですが、そうはいかないのが面白いところ。
実は七福神めぐりにはいくつかのパターンがあり、参拝場所にも入れ替わりがあります。たとえば「都七福神」であれば、ゑびす神社(恵比寿)・妙円寺(大黒天)・赤山禅院(福禄寿)・東寺(毘沙門天)・萬福寺(布袋)・行願寺(寿老人)・六波羅蜜寺(弁財天)です。これに対して「京の七福神」では護浄寺(福禄寿)・山科毘沙門堂(毘沙門天)・長楽寺(布袋)・三千院(弁財天)に替わっています。
他にも「京都七福神」では遣迎院(福禄寿)・廬山寺(毘沙門天)・妙音堂(弁財天)・大福寺(布袋)となるなど、スタンプラリーに挑むにしてもパッケージごとに中身が違うという絶妙の戦略に出くわしてしまいます。
なお京都で毘沙門天を祀るもっとも有名なスポットとしては、個人的には鞍馬寺を推しておきたいと思っています。ところが鞍馬寺の毘沙門天を七福神めぐりに含めているのは「七福巡拝」というパッケージだけのようなのです。
最近はご朱印集めがちょっとしたブームになっています。可愛らしいご朱印帳に書いてもらった中からお気に入りを探すとかがトレンドなのでしょう。でも各地の霊場を巡り歩くことそれ自体は古くから盛んに行われてきた慣習でした。たとえば近畿圏を広範に歩き回らねばならない西国三十三箇所観音霊場巡拝。これなどはかなり手強いケースです。それに比べると七福神めぐりはどれをとっても手軽な部類に入ると言えます。紅葉をお目当てに訪れた毘沙門堂をきっかけに霊場めぐりを始めるというのも楽しいかも知れません。