夏になると、京都の伝統行事「御霊会(祭)」が各地で行われます。その発祥となった祭礼で知られる「御靈神社」は、あの「応仁の乱」が勃発した場所ともいわれています。神社の門前には「応仁の乱」の直後に創業した厄病除け煎餅「唐板」を販売する店もあり、京都や日本の歴史を語るうえで欠かせない場所となっています。
創建の詳細は明らかではないそうですが、延暦13年(794)の平安遷都に伴い、桓武天皇が弟・早良親王(崇道天皇)の神霊を平安京の守り神として祀ったのが「御靈神社」の始まり。それ以前の飛鳥時代から奈良時代には、この地にあった出雲一族の氏寺である「上出雲寺」の鎮守社として「出雲寺」とよばれていたともいわれています。上出雲寺は平安時代には荒廃していたと伝えられていますが、現在も境内から当時の瓦が出土されることがあるとか。 御靈神社は皇室の「産土神(うぶすながみ)」としても名高く、明治時代以前は皇室に皇子が誕生すると参拝する風習があったといわれています。 また、創建当時、御靈神社の南側に位置した「下御霊(しもごりょう)神社」に呼応して、地元の人からは「上御霊(かみごりょう)さん」とも呼ばれています。 下御霊神社は、安土桃山時代の天正18年(1590)、豊臣秀吉公の区画整理によって、京都御苑の南東角に移転しています。
京都の伝統行事「御霊会(祭)」のルーツを持っています
桓武天皇の時代、京都では疫病の蔓延や天変地異に立て続けに見舞われ、それらは非業の死を遂げた早良親王の祟りだと恐れられていました。その御霊を鎮め、神として祀ることで災いを除去しようという御霊信仰に基づき、貞観5年(863)に神泉苑で悪疫退散の「御霊会(ごりょうえ)」が行われます。 その後も非業の死を遂げた井上内親王と他戸親王らの神霊を合祀。現在に至るまでに12柱の神霊が祀られています。御霊を鎮めるのはもちろん、参拝者の心も穏やかにする「こころしずめ」の社として知られています。 現在も京都の夏の伝統行事として各地で多くの「御霊会(御霊祭)」が開催されていますが、この御靈神社の祭礼が発祥とされています。
「応仁の乱勃」発の地としても知られ、境内には石碑も鎮座
室町時代にあたる文正2年(1467)1月、管領職の畠山政長が境内の御霊の森に布陣。攻め寄せた畠山義就との畠山家の家督争いが、応仁の乱勃発の引き金となりました。このことから御靈神社は「応仁の乱勃発地」とされ、境内には石碑も残されています。
「応仁の乱」は11年にもわたって繰り広げられ、京都中が焼け野原になったことはご存じのとおり。元の元号である「文正」は縁起が悪いとされ、乱が始まった年の3月に「応仁」に改元されるなど、日本の歴史に大きく影響しています。
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御靈神社(ごりょうじんじゃ) 上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)
●京都市上京区上御霊前通烏丸東入ル ●地下鉄鞍馬口下車から徒歩3分
「応仁の乱」直後に創業した「水田玉雲堂」の疫病除け菓子
御靈神社の門前にある「水田玉雲堂」は疫病除け煎餅の「唐板(からいた)」で知られ、応仁の乱の直後である文明9年(1477)、御靈神社の境内に茶店を構えたのが前身といわれています。 「唐板」は、貞観5年(863)に神泉苑で御霊会が行われた際、神前に供えられた「唐板煎餅(からいたせんべい)」が原型。唐板煎餅は、御靈神社の祭神のひとりである吉備真備(きびのまきび)が奈良時代に遣唐使として中国に渡り、持ち帰ったものといわれています。
応仁の乱などで御霊会が途絶えるも、「水田玉雲堂」のご先祖が文献などをもとに唐板煎餅の作り方を会得、再興。御靈神社の境内に現在の店の前身となる茶店を開きました。昭和初期に現在地となる門前へ移転。創業以来、現在まで540年以上にわたって、「唐板」1種類のみを製造販売し続けています。
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水田玉雲堂(みずたぎょくうんどう)
●京都市上京区上御霊前通烏丸東入ル上御霊前町394 ●地下鉄鞍馬口駅から徒歩3分
心を静めたい今、自宅から御靈神社を遥拝してみては?
1200年以上続く京都の歴史の中で、大きな転換期となった事件のひとつといえる「応仁の乱」。その勃発の地と聞くと穏やかではない気もしますが、御霊を鎮めるだけでなく参拝者の心も静めてくださる「こころしずめ」の社として敬われ、親しまれています。 日本のみならず世界レベルで疫病が蔓延している今、御靈神社への参拝は叶わなくても、自宅から遥拝してみてはいかがでしょうか?