「西山」は京都の西側に連なる山々の謂いでしたが、いつしか宗教的ニュアンスでの使い方が強まってきました。法然上人が開いた浄土宗の聖地としての西山です。西山三山と一括りにされるのも、その対象は山並みではなく、この地に展開する善峯寺、粟生光明寺、それに楊谷寺を指しての呼称となっています。
京都の市街地西方に連なる山々を西山と呼ぶことがあります。三方を山に囲まれた盆地である京都で古くから使われてきた呼び名なのです。しかし北山や東山とは少しばかり異なったカラーが添えられること、具体的には、浄土宗西山派を連想させる使い方の方が多くなっています。
平安時代の末期に成立した浄土宗が、開祖の法然の死後、教義の解釈をめぐって分裂、その1つの新集団が現在の西京区大原野の三鈷寺を拠点としていた証空の浄土宗西山派(西山浄土宗とも)でした。そして証空が西山国師や西山上人の名で呼ばれたことから、西山は浄土宗の聖地を呼び起こす響きを持つに至ったのです。
また証空の三鈷寺のほかに法然に帰依した熊谷直実が建てた光明寺も西山派の拠点となっており、現在の地名でいうと大原野や長岡京市の方面が空間的なイメージでいうところの西山となっていったのでした。
地形的な位置関係でいうと、京都市街の中心部、通常の京都御所の位置する上京界隈がそれにあたりますが、その辺りから西の方角を眺めるなら愛宕山が大きな存在感をもって眺められます。あるいは現代の観光的な目線でいえば、京都市街地の西方というと嵐山方面です。
一方、西山という地名が指し示すのは、愛宕山や嵐山ではなく、浄土宗西山派ゆかりの三鈷寺や光明寺(粟生光明寺、現在の西山浄土宗が総本山とする寺院)のある西京区南部の大原野や向日市、長岡京市のあたりになってくるのです。つまり位置的には京都市街地の西方というよりは西南の方角であり、南区や伏見区から見ての西となっています。
さて、こうした歴史的な背景を踏まえておけば、西山三山なる言い方にも合点ができることでしょう。そもそもなんとか三山とよく言われるのは、顕著な山岳地形が3つ並んでいる場所を指していう他に、宗教的に繋がりの強い三箇所を総称して言うケースがあります。神社でいえば熊野三山や出羽三山、寺院であれば湖東三山(西明寺・金剛輪寺・百済寺)などがその類です。大原野・長岡京周辺の浄土宗寺院についても西山三山という言い方が用いられることがあり、その場合は、粟生光明寺と善峯寺と楊谷寺がそのグループに属することになります。
歴史的に見て三鈷寺が入っていないのが不思議に思われるところがないわけでもありません。思うに応仁の乱などで大きく衰退していたことも影響するのでしょう。現在の観光目線でいうと、この西山三山のうち、最も多くの観光客を集めているのは善峯寺です。西山派の総本山である粟生光明寺はその次ぐらいでしょうか。そして楊谷寺が3番目ぐらいの印象です。
ちなみに、この界隈には紅葉名所としても知られる勝持寺というお寺があります。秋の観光シーズンに絞るなら、楊谷寺よりは勝持寺の方が人気は高くなっているかも知れません。
ともあれ、西山三山という括りがなされるのは、善峯寺・粟生光明寺・楊谷寺の3箇所なので、以下、これらについて簡単にまとめておきましょう。
まず善峯寺から。山の中腹に展開する伽藍群は春の桜名所、秋の紅葉名所としてもよく知られています。徳川綱吉の母、桂昌院ゆかりのお寺としてでも有名で、西京エリアの中でもトップクラスの人気スポットです。
粟生光明寺は、先にも少し触れましたが、法然に帰依した熊谷直実がお堂を建てたところからその歴史が始まっています。熊谷直実が法然に帰依するストーリーは平家物語の泣かせどころ、敦盛最期のくだりでも知られています。話が長くなるのでそれはまた別の機会に譲るとして、粟生光明寺は法然上人名跡として名高いスポットです。熊谷直実改め蓮生の件のほか、法然上人が西山界隈で教義を説くにあたって、ここを拠点としたことは念仏の教え発祥の地とされることもありますし、境内の法然廟は法然を荼毘に付した後に建てられた廟堂であるとのことです。
最後に西山三山のトリとしての楊谷寺。柳谷観音とも呼ばれ、古くから紅葉名所として有名であるのに加えて、近年では紫陽花の寺としての評判も高くなっています。境内に湧く独鈷水(おこうずい)は眼病に霊験があるとされることもあって、祇園の目疾地蔵仲源寺とともに眼疾平癒の場所としての人気があります。京都市内には身体の特定部位に対するご利益をうたう寺院がいくつかあります。歯が痛くなると伏見のぬりこべ地蔵、足腰の痛みには護王神社などが有名どころとなっていますが、眼疾平癒の楊谷寺もそのラインナップ加わる1つです。