東福寺の通天橋や高台寺の臥龍廊など、名のあるところもあればそうでないところも。渡り廊下の魅力をいま再び

建物と建物を繋ぐ渡り廊下は、本来はどこにも属さない無色透明な場所でした。それだけに意外な発見の宝庫でもありました。渡り廊下を通過しながら視界の片隅に飛び込んできた風景、それが意外に素晴らしいものだったりした時には、なにかの巡り合わせて大きな儲けものをしたかのような気にもなってしまいます。

[視界の片隅に]

庭の紅葉を眺めるベストスポットは?、とそんな問いを投げ掛けられた時、どう答えましょうか。縁側に腰を下ろして眺めるのもいいし、座敷の真ん中から障壁画などの室内装飾を眺める視界の一部に屋外の紅葉を含めるのも一興です。それが源光庵のように特徴的な窓枠の場所ならなおさらと言えるでしょう。結局のところ、それぞれの場所にはそれぞれのベストアングルがあるわけですから、一概にどこどこと決めつける方が野暮なのかも知れません。しかし、面白い所を狙って言うのなら、渡り廊下を歩きながら、ふと視界の片隅に飛び込んでくる景色を推してみるのもいいのではないでしょうか。

[東福寺・通天橋の場合]

ということで、まずは東福寺。定番すぎるとお叱りが返ってくるかも知れません。でも東福寺拝観の目玉、通天橋は渡り廊下みたいなものなので、大目に見てもらいましょう。 そもそも「渡り廊下」とは何かというところから確認するのなら、2つの建造物を連結する廊下のことです。ここでのポイントは渡り廊下を通過している最中は、完全に屋外に出ているということです。いずれかの建造物に属するのではない、屋外ならではの眺めが唐突に飛び込んでくるのが渡り廊下の魅力と言っていいのではないでしょうか。 東福寺の場合、通天橋そのものが紅葉スポットの中でもベストスポットとして喧伝されすぎているので、渡り廊下から眺める偶然の魅力という方向で見直すのは困難です。それでも本来は本堂から開山堂に向かう途次に眺める洗玉澗の紅葉という位置づけだったはずです。実際のところはその眺望自体がすでに自己目的化して、橋の途中にも観楓スペースが用意されているくらいなのでプラスα的な魅力は期待薄です。しかし移動が本来の目的として意識されていて、そのついでに目に留まった景色に感動というパターンだったとすれば、お得感も生じるのではないでしょうか。

[高台寺・臥龍廊の場合]

最初に定番すぎる事例を出したのがマズかったとすれば、高台寺で考えてみましょう。高台寺の拝観は書院や方丈から枯山水の方丈前庭(波心庭)や方丈西側の池水式庭園を眺めた後、開山堂や霊屋を訪れるのが順路です。 この開山堂と霊屋を繋ぐのが臥龍廊という名前の屋根付き渡り廊下です。この臥龍廊を含めて池水式の庭園を被写体にするのは、高台寺拝観でのお約束となっています。そうしたお約束に加えてもう1枚、臥龍廊の上部から下方を眺めおろすアングルを試みてはいかがでしょう。風変わりな面白さがありますし、臥龍廊の両サイドに紅葉が映り込むタイミングならなおベターといったところです。

[真如堂の渡り廊下]

他によく似たパターンを探すなら真正極楽寺こと真如堂あたりはいかがでしょう。真如堂の拝観では本堂や書院の室内も見どころになっていますが、それに加えて本堂と書院を繋ぐ渡り廊下、その渡り廊下に立って眺める周囲の草木も季節の移ろいを感じさせるバリエーションに富んでいます。 真如堂は三重塔の周りの紅葉が美しく、その一帯は無料で散策できるようになっています。そのため、無料エリアだけで満足してしまいがちなのですが、本堂に上がって室内装飾を拝観する、そして書院に属する涅槃の庭や随縁の庭などを拝観するのも楽しみの幅が広がるというものです。

[永観堂・三鈷の松]

他にも永観堂もまた数多くの伽藍を渡り廊下で連結する構造の境内となっているので、探してみると想定外の眺めと出会えたりする可能性があります。ちなみに永観堂には、他の神社仏閣でよく語られる七不思議が伝わる場所です。そのひとつに「三鈷の松」と呼ばれるものがあります。これは一般的な松葉が2本に分かれているのに対して3本に分かれるという変わった品種です。面白いのは、この「三鈷の松」が植わっている場所です。 七不思議に数えられるくらいの松なのだから、本堂阿弥陀堂の庭だったりすれば驚きも少ないのでしょうが、どういうわけか、御影堂から阿弥陀堂に向かう渡り廊下の傍らという、非常に見つけづらい場所にあります。最初にこの松を持ち込んで植えた人は、もしかして誰にも見つからないように隠そうとする意図でもあったのでしょうか。 最初のところで触れたように、渡り廊下は本来は移動のための手段であり、それ以上の意味づけはありません。しかしながら、どの室内、どの建物にも属していないからこそ、独自の空間だったりします。その有り様は、無色であるがゆえの存在感とでも言えばいいのかも知れません。「三鈷の松」の場所に、そこまでの何かを言い立てるのは、饒舌が過ぎるでしょうか。