琵琶湖疏水と大文字山、水と山を両睨みで楽しむ蹴上の魅力をご紹介

蹴上といえば琵琶湖疏水ゆかりの地。明治150年を記念した2018年、京都では蹴上−大津間の琵琶湖疏水船の復活事業が注目を集めましたが、蹴上の地域的な面白さは、こうした疏水関連のものに加えて、大文字山ハイキングの起点になれるということです。銀閣寺ルートとは別に、蹴上から挑む大文字山も素晴らしいものです。

2018年は明治150年を記念して、日本各地でさまざまなイベントがとり行われたようです。明治という時代にスポットライトを当てて、それがどういう時代だったのかを検証するというニュアンスのものが多かったように思われます。そうした中、京都で行われた事業でとりわけ注目されるのは、琵琶湖疏水船の復活事業ではないでしょうか。 琵琶湖疏水は琵琶湖の水を京都に引く巨大水路で、明治時代に大津と蹴上の間で開削が進められて明治23年(1890)に第1疏水が完成しています。時代が明治となってすぐに始まった京都策(2代目の府知事槇村正直と山本覚馬らによる近代化政策)の中でも構想されながら資金的理由から先送りとなっていたプロジェクトでしたが、3代目の府知事に就任した北垣国道が他の政策の多くを停止して、府の総力を疏水開削に向けるという判断のもと、実施された事業です。水運に役立てるだけでなく、膨大な水力を活用した発電事業を行うなど、京都の近代化に大きな役割を果たしたのが琵琶湖疏水でした。

[蹴上−大津間の通船巡航]

その後、交通事情を含めた時代の変遷にともなって、長らく近代遺跡となっていたこの巨大水路でしたが、2018年の春より明治150年の記念事業の1つして観光船の本格就航が始まりました。 岡崎界隈での桜風景や十石舟、南禅寺境内に残る水路閣、あるいは哲学の道のほとりを流れる分線などの形で、現代の観光分野にもたくさんの恩恵を与えている琵琶湖疏水ですが、蹴上−大津の間で通船巡航が行われることで、さらなる貢献が期待されるようになっています。 さらに、現時点ではまだ机上の計画段階のようですが、インクラインに軌道列車を復活させようという動きもあると聞きます。蹴上の疏水出口と船溜まりの間の段差において、舟を積載した状態で斜面の上り下りを行っていた輸送システムがインクラインです。実際に運用されていた頃は「舟が丘を走る」との評判にもなって面白がられたとも。 このインクラインは、水運での利用がない現代では春の桜風景を演出する一齣となっています。線路脇の美しい桜並木に影響が及ばない範囲であれば、かの路線を舞台に「舟が丘を走る」風景を復活させるのも面白い試みと言えるのではないでしょうか。

[大文字山ハイキング]

さて蹴上といえば、このように琵琶湖疏水およびインクラインをめぐる話題で始まり、その話題で終わってしまうのが普通です。しかし、もう少し別の方向から切り込むのであれば、大文字山への登山口という捉え方もできます。 一般によく用いられる大文字山ハイキングのスタート地点は銀閣寺道です。銀閣寺の裏手から上り始めて火床(送り火の夜に松明が設置される石組み)のうち、大の字の中心点である火床(これを特に金尾と呼びます)まで行き、そこから同じ道を下りてくるのがもっともポピュラーな大文字ハイキングなのですが、行程のボリュームを上げたり、バリエーションを加えたりするのであれば、折り返し点を金尾ではなく大文字山の山頂にするとか、登路を鹿ヶ谷にするとか、あるいは折り返し行程ではなく縦走形式にするとかなどのパターンがあります。 蹴上にスポットライトが当たるのは、縦走形式で大文字山を走破する際においてです。具体的には、蹴上から日向大神宮の境内を経て登山路に入り、七福思案処と呼ばれる分岐で山頂方面に向かうという形です(もちろん逆も可)。 京都の観光コースと近郊ハイキングルートを織りまぜたトレッキングルート「京都一周トレイル」では、蹴上から七福思案処を経て登り続け、大文字山山頂手前の分岐から鹿ヶ谷に下りるという行程が提案されています。山頂の手前で下り始めるというのは、好意的に忖度するなら哲学の道を一部でもコースに含ませたいとの意図からなのでしょう。しかし、たとえそうだったとしても、あるいは山頂手前分岐から山頂への往復ぐらいは各自の判断で行うべしということだったとしても、大文字山の山頂を踏まない形で紹介するのは京都を舞台とするハイキングとしては不十分極まりないと言わざるを得ません。 銀閣寺−若王子神社間の哲学の道は短くても一部は含まねばならない、コースは100パーセント完全な一筆書きにならないといけない、大文字山ハイキングは雰囲気を味わえる程度は含まねばならない、といった条件が同時に満たされなければならないという類いの設定だったのでしょうか、細かくはよくわかりません。