嵐電沿線で紅葉が美しい禅刹の鹿王院は、一般に認知される嵐山のエリアから外れているため穴場と見なされています。嵐山を借景に活かした庭園や足利義満筆の扁額が掲げられているという見どころ豊富な場所ながら、渡月橋まわりの嵐山界隈では味わうことのできない静かさを楽しむことができます。
嵐山の紅葉がお目当ての観光客は、たいていは嵐電・嵐山駅、阪急・嵐山駅などを起点に行動を開始します。JRを使う場合でも嵯峨嵐山駅スタートが基本。これによって一般に認識される嵐山の観光エリア(正確には嵯峨野・嵐山エリア)がだいたい決まってきます。すなわち清滝道ないしはJR嵯峨嵐山駅より西側と。
渡月橋、天龍寺、二尊院等々、多くの有名スポットはそのエリアに収まりますが、それだけにエリア外のスポットが穴場扱いされる傾向にあります。たとえば渡月橋北詰に頓宮のある車折神社。三船祭の催行主体としても有名なので、人気が出てしかるべきところなのに、その本宮は穴場扱いです。これは、本宮が清滝道以西エリアから外れるからでしょう。
車折神社と同じく、広義には嵯峨嵐山界隈に入っていても、一般に認識される観光エリアから外れていて穴場と見なされているのが鹿王院です。山門よりまっすぐ伸びる参道の紅葉、嵐山そのものを借景に取り入れた作庭感覚など、注目される要素は揃っているのに、訪れる人が少ないのは、たぶんに立地条件によるものなのでしょう。
近年は認知度が上がってきたこと、例年行われている紅葉のライトアップなどによって事情は少し変わりつつあるようですが、それでも渡月橋や二尊院に比べると、人の出は少なめです。
さてそうした鹿王院、由緒から改めて振り返っておきましょう。創建は室町時代の1379年(康暦元年)。3代将軍足利義満が、春屋妙葩を招いて宝幢寺という臨済宗のお寺を開きます。宝幢寺は室町幕府から手厚い保護を受け、京都十刹の五位に格付けされています(十刹は五山に次ぐ序列で、鎌倉十刹と京都十刹が制定されました)。
この宝幢寺の開山堂が現在の鹿王院です。宝幢寺は応仁の乱で焼失しますが、鹿王院が宝幢寺の山号である覚雄山を引き継いで覚雄山鹿王院として営まれることになったのでした。
このように宝幢寺が鹿王院として再出発した経緯は記録でも辿ることができます。しかし、現在、見ることのできる客殿その他の堂宇建立や庭園は江戸時代後期の宝暦年間のことなので、年表的にはいくらか不明な期間が残ります。そのうえでも注目されるのは客殿南側の枯山水庭園です。
この庭が本格的に整備されたのは、江戸時代ですが、それ以前からあった原型を忠実に踏襲していると言われます。いわば現代に伝わる室町風庭園といったところでしょう。特徴は築山をつくらない平庭でありながら置き石と植え込みを活用して奥行きを表現していること、そうした視覚的広がりをさらに強調する嵐山の借景です。庭にはおりることができませんので客殿の縁側に腰を下ろして眺めると、庭の中に置かれている唯一の建造物である舎利殿が嵐山との絶妙の取り合わせになるよう配置されているのがわかります。
また舎利殿の手前でこんもりとした茂みを作っているのは、モッコクという品種で江戸時代には作庭で好んで用いられたそうですが、このモッコクは鹿王院に残る銘木の一つなのだのだとか。このあたりは江戸時代に手が加わった影響でしょうか。この庭からは、天龍寺や金閣寺で見られるような派手な特徴を観察することはできません。そのぶん、落ち着いた雰囲気を味わうこともできます。
紅葉のシーズンになると、以前ほどの閑静さは望めないかもしれませんが、嵐山中心部の観光地に比べるなら、格段に落ち着きが保たれていますので、静かな気分での庭園鑑賞を望むのならちょうどいいスポットになります。ちなみに、この客殿には「鹿王院」と書かれた大きな扁額が掛かっています。かなり古びたものですが、これは足利義満自筆のものだそうです。
ところで、嵐電嵐山本線には鹿王院という名前の駅があります。また地図でみると鹿王院は線路のすぐ南側にあるので、駅からすぐ近くと思われがちなのですが、実は少し距離があります。というのは鹿王院の山門が敷地の南端にあって、駅からなら6〜7分ほど歩くことになるからです。もっとも、この南下があるからこそ、山門をくぐった後の長い参道(秋の紅葉シーズンには赤く染まるスポット)を堪能することができるわけです。北側に通用門のようなところがあって、そこから入ることができるとすれば、便利にはなりますが、鹿王院の魅力が半減することになるでしょう。数分間を費やして南に下り、山門をくぐってからほぼ同じ距離を北上する形ですが、そこまで含めての鹿王院です。