竹林の奥に佇む草庵、紅葉と苔庭の美しいお寺として人気の祇王寺は、奥嵯峨が観光対象として脚光を浴び始めた時代に、時を同じくして注目されるようになった場所です。シンボリックであるとともに社会情勢との絡みむ深い祇王寺ストーリーを辿れば、奥嵯峨界隈の年代記も浮かび上がってきます。
奥嵯峨の2大人気スポット
嵐山界隈で賑わいを極めるのが渡月橋まわりや天龍寺北側の竹林の小径。そこを訪れた人々がその足で嵯峨野に向かうと、行き先は自ずと二尊院か祇王寺ということになります。
二尊院に至る前の常寂光寺や落柿舎に立ち寄る人もいるにはいるでしょう。あるいは奥嵯峨方面から離れて北嵯峨の清涼寺や大覚寺を目指す人がいるかも知れません。しかし、おおよその傾向で言うとすれば、竹林の小径の次は二尊院もしくは祇王寺となるようです。
二尊院と祇王寺、ともに紅葉スポットとして名高く、秋であれば超のつく混雑スポットにカウントされます。したがって渡月橋→竹林の小径→二尊院→祇王寺と辿るのは、混雑スポットの模範的な串刺しツアーと言うことになります。
だからと言って、これらを敬遠するのは得策ではありません。組み合わせ方や訪れる時間帯を選ぶなどすれば、それぞれ存分に楽しめるスポットです。そうしたことを前提にしておき、今回は祇王寺についてご紹介をしていきます。
竹林の尼寺
大堰川まわりの嵐山は王朝時代から貴族たちの遊興地でしたし、庶民層でみても江戸時代ぐらいから賑わいの地として有名になっていました。そうした人出が奥嵯峨方面に及ぶのは高度成長期の頃からだと言われます。
ちょうど時を同じくして社会現象にように言われていたのがアンノン族の登場です。女性誌のan・anやnon・noが提唱するスタイルを実践する女性たちが各地に現れ始めたのです。折しも国鉄が大々的に打ち出したディスカバージャパンのキャンペーンとの相乗効果で、従来の観光地の枠にとらわれない新しい観光地が注目を集めるようになっていました。
嵯峨野の魅力がクローズアップされたのも、そうした趨勢の中であり、嵯峨野のイメージを象徴するのが若い女性の一人旅という図柄になっていきました。 嵯峨野の竹林に佇む尼寺、祇王寺は、そうした需要に応える場所として人々の目に留まるようになったのです。
高岡智照尼のこと
また、長らく荒れていたお堂を居として、祇王寺の復興に尽力した高岡智照尼の存在も、祇王寺を語る上では欠かせません。智照尼は、明治末から大正期にかけて大阪や東京の花街で嬌名を謳われた芸妓でした。絵はがき(現代風に言えばブロマイド)になるくらいの美貌と数々のスキャンダルで知られていましたが、昭和時代の初期、突然出家して祇王寺の庵主となったのでした。
祇王寺は、平家物語に描かれる祇王祇女姉妹の隠棲した草庵でしたが、いつしか彼女たちを供養するお寺と見なされるようになっていました。現在の祇王寺がある周辺は、隣の滝口寺も含めて法然上人の弟子、良鎮が開いた往生院というお寺の敷地に含まれています。平清盛の時代よりは下りますので、祇王祇女たちが隠棲した草庵を吸収する形で往生院となったのかとも思われますが、鎌倉時代以降の来歴はよく分かりません。江戸時代に建立された祇王の供養塔があることから、近世にも草庵かお寺の面影はあったのでしょう。
明治時代には廃寺同然となっていたようで、寺地を管理していた大覚寺が復興に乗り出し、琵琶湖疏水の開削を推進したことで知られる京都府知事北垣国道より別荘の建物一棟を譲り受けて体裁を整えたのが明治時代も終わり頃でした。
それでも常住の宿守(管理人)が得られず、数年のうちに荒廃する可能性もあったので智照尼が庵主として入ることとなったのでした。それから後、戦争の時代を耐えて、世の中が落ち着きを取り戻してくるにつれ、戦前からの支援者たちの助力もあって祇王寺の経営もようやく軌道に乗るようになります。
そして智照尼をモデルとした瀬戸内晴美(寂聴)の小説『女徳』の影響もあって、心に傷を負った女性たちの悩みを聞くことのできる尼僧としての評判が定着するようになったのでした。平家物語に描かれた祇王姉妹の悲哀、智照尼の実人生、時代の後押し、これらが相まって、昭和時代の後半には、嵯峨野の尼寺、祇王寺の名声が確立されるのでした。
苔庭の草庵
そうした時代よりさらに四半世紀が経過して、現在では嵯峨野の雰囲気も一変しました。人々が祇王寺に求めるのも、昭和時代の祇王寺がそうだったような精神的なものではなくなり、苔庭と紅葉の美しさといった絵になる側面に変わっています。観光で訪れる人々の中でも、智照尼のことを知る人は少なくなっているようです。
現在の祇王寺で智照尼の面影を求めることができるのは、草庵前の歌碑(祇王の和歌を智照尼が揮毫したもの)と祇王供養塔の傍らにあるお墓ぐらいのものです。