洛西における紅葉名所にして西国三十三箇所の二十番札所、善峯寺。山の中腹に開かれた境内に入り、拝観コースを順を追って眺めていきましょう。行程の中では、善峯寺の復興に尽力した桂昌院の話をはじめ、隠されたエピソードの数々が楽しめます。併せて隣接する三鈷寺まで足を伸ばしておけば眺望の旅が完成します。
善峯寺・善峰寺・良峯寺
洛西の名刹、善峯寺。紅葉の名所としても名高いこのお寺のご紹介を改めて。西山との山号をもつお寺の名前は善峯寺とも善峰寺とも記されますが(場合によっては良峯寺)、山門に掲げられている伝後鳥羽天皇宸筆の扁額「善峯寺」が公式には寺号とされています。その山門をくぐって境内を小一時間かけて一周してくるのが、基本的な拝観コースです。
桂昌院による善峯寺復興プロジェクト
山門から石段を登ってまず本堂でもある観音堂に向かいます。善峯寺のご本尊は千手観音菩薩。西国観音巡礼三十三箇所二十番札所のご朱印が授与されるのもこの場所なので、拝観の実質的なスタート地点です。次に向かうは鐘楼堂。観音堂と同じく、江戸幕府5代将軍綱吉の母、桂昌院の寄進によって建立されたお堂で、鐘楼も桂昌院寄進によるものです。この他に、護摩堂、鎮守社、薬師堂、経堂もまた桂昌院の寄進によって建立されました。
善峯寺復興に大きく寄与した桂昌院の功績は、こうした諸堂の数々にうかがい知ることができます。 ところで桂昌院が善峯寺に援助を重ねたのは、自らの出生に関係するところがその理由とされています。表向きは関白家の家司の娘とされている桂昌院ですが、正確なところは不明です。大奥で働く侍女だった彼女を3代将軍家光が見初め、その第四子を生むこととなります。その子がやがて将軍職を継ぎ、母親も異例の出世をする形となります。
ここまでなら人も羨む玉の輿ストーリーですが、こうした異例の出世には僻みや誹謗も付いてきます。織屋の娘だとか八百屋の娘だとか、様々な噂が流されたのもその1つでした。そうした状況に対して、関白家家司である父親が善峯寺に女児誕生の願掛けを行い、自らが生まれたということにして善峯寺に大がかりな援助がなされたのでした。このように、桂昌院による善峯寺復興プロジェクトは、言わば彼女自身の自己防衛の施策でもあったと言えます。
遊龍の松
少し話が脱線しましたので、境内案内に戻りましょう。本堂を過ぎて鐘楼堂まで来たところだったはずです。ちなみに、ここに掛けられている鐘楼には「厄除けの鐘」という異名があります。これは寄進された年(貞享2年、1685年)が徳川綱吉の厄年にあたり、その厄除けの願いが籠められたものだからです。
ここから更に石段を登った先に見えてくるのが、善峯寺の代名詞とも言えるアイテム、遊龍の松です。樹高は人の丈ほど、もっとも高い部分でも3mぐらいと記すと、かなり小さな松のようですが、枝(幹?)の長さが35mにも及ぶ長さを持った五葉松です。すなわち、天高く聳えるのではなく、地上を這うように横に伸びている松なのです。しかも近年行われた松食い虫の駆除のために切断された結果が現在の姿であり、かつては50mに達する長さを有していました。
この遊龍の松がある傍らには、国の重要文化財に指定されている多宝塔や、祈願成就の絵馬奉納所として活用されている経堂、さらにその先に桂昌院お手植えと伝える枝垂れ桜があります。JR東日本のCM「そうだ 京都、行こう」シリーズで紹介されたのが、この枝垂れ桜でした。このCMによって善峯寺の知名度が高まったことを思うと、遊龍の松のある一帯が、善峯寺拝観のメインスポットと言えそうな雰囲気です。
阿弥陀堂からの眺め
順路に従ってさらに進むと、釈迦堂や薬師堂を経て、阿弥陀堂に至ります。この辺りが善峯寺の境内の中ではもっとも標高のあるところで、京都の市街地を一望するように視界が広がっています。紅葉に見どころを求める場合、山門の周りにも立派なモミジの木はありますが、全体的には釈迦堂や阿弥陀堂周りの方が充実しているように見えます。とりわけ、阿弥陀堂付近での眺望では、眼下に境内を広く見下ろすことにもなりますので、いい具合に色づいた錦秋の西山善峯寺と出合うことができます。
三鈷寺
さて善峯寺の拝観に訪れると、この境内とは別にもう一つ、足を伸ばしておきたい場所があります。それが北門(一方通行の回転扉、再度境内に戻るには拝観券を提示する必要あり)を出た先にある三鈷寺です。天台・真言・律・浄土の四宗派兼学の寺院で云々は措いておくとして、ここの眼目は境内からの眺望です。
善峯寺の阿弥陀堂付近でもかなりの眺めを楽しむことができたのですが、三鈷寺でもそれに負けない眺めを楽しむことができます。最初から眺望比較を試みるつもりでいれば、広域地図を用意しておき、どの場所でどの方向が見えるのかをチェックしてみるのも楽しいでしょう。善峯寺と三鈷寺、西山の名刹、眺望の旅です。