伝統校の歴史をつむぐ「京都府立鴨沂高等学校」

京都府立鴨沂高等学校

東に鴨川、西に京都御苑を望む寺町通荒神口に建つ「京都府立鴨沂(おうき)高等学校」。前身は明治5年(1872)に日本初となる官公立の女学校(高等女学校)として創立された「新英学級及女紅場」で、旧九条殿河原町邸に設立されました。

明治時代初期の女子の教育機関であった「女紅場」。ここで女学生たちは料理や裁縫に礼法、英語、習字、算術などを身に付けたといいます。鴨沂高等学校の前身である「新英学級及女紅場」は、華族の子女が通う英学校と女紅場が併存されたものだといわれています

「新英学級及女紅場」があった場所とは?

京都府立鴨沂高等学校
現在地である寺町通荒神口に移転したのは明治33年(1900)のことで、もともとは旧九条殿河原町邸にありました。鴨川に架かる丸太町橋西詰南側の「旧京都中央電話局上分局」の建物があるあたりで、東側の角には現在、「本邦高等女 学校之濫觴 女紅場址 従是」と刻まれた石碑が建っています。

ドラマのモデルになった女性たちにもゆかりがあります

女学校創立時には、同志社大学の創設者として知られる新島襄の妻・新島八重が勤務していたことも。また、大同生命の創業に携わった実業家・広岡浅子の娘・亀子が通った女学校としても知られています。その後、「英学校及女紅場」「京都府女学校」「京都府高等女学校」「京都府第一高等女学校」などと改称を重ね、昭和23年(1948)、男女共学の「京都府立鴨沂高等学校」に。校舎は老朽化により数年前に改装。旧校舎には昭和12年(1937)にヘレン・ケラーが演説を行った講堂など、多くの歴史と伝統が残されています。

社寺の山門のような風格を持つ旧正門

京都府立鴨沂高等学校
寺町通側で目を引くのが、まるで社寺の山門のような風格がただよう旧正門。旧九条殿河原町邸より茶室とともに移築されたものだそうで、旧正門の瓦には九条家の家紋が刻まれています。校舎の改装後に新しい正門ができたものの姿を残し、伝統校の歴史を伝えています。

旧正門の脇にはこのような石碑も建っています

京都府立鴨沂高等学校
旧正門脇に建つ「明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯」の石碑。明治18年(1885)ごろから明治21年(1888)ごろまで、「京都府尋常中学校」(現在の洛北高等学校)がこの地にあったとされています。その後、明治33年(1900)に九条殿河原町邸より、「京都府高等女学校」(現在の鴨沂高等学校)がこの地に移転します。

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京都府立鴨沂高等学校(きょうとふりつおうきこうとうがっこう)
●京都市上京区寺町通荒神口下ル松蔭町131 ●市バス停荒神口から徒歩3分