清水寺の隣にある山寺の物語、歌の中山・清閑寺を知らずして穴場を語ることなかれ

清閑寺

清閑寺は清水寺の影に隠れてひっそりと佇むかのような山寺です。かつては清水寺と勢力を競ったとか、「歌の中山」との異名を轟かせていたとかのことですが、現代ではほとんど見向く人もいない穴場中の穴場です。しかしながら、歴史面でも文化面でも、さらには景観面でも見どころにはこと欠きません。

京都の紅葉 2清水寺を拝観する際、多くの人は仁王門から三重塔の横を通って舞台で有名な本堂に向かいます。そして奥の院を経て子安の塔に立ち寄る、もしくはそれを省略して錦雲渓に下り、音羽の滝で願掛けをした後、今度は下から舞台を見上げながら三重塔の下を通って仁王門前に戻ってきます。一般に指定されている順路がそうなっているからです。逆コースで歩いてみるへそ曲がりさんがいたとしても、それはそれでも構いません。しかし、さらに輪を掛けて天邪鬼になるのなら、奥の院から錦雲渓にも子安の塔にも行かず、東門から外に出てしまうことも可能です。東門から外に出て何が面白いのかと問う向きがいるとすれば、お答えします、その先に「歌の中山、清閑寺」があると。

[小督哀史]

清閑寺は平安時代の初期、真燕僧都によって創建された真言系の寺院です。かつては清水寺にも匹敵する広大な伽藍群を有していたとも言われますが、応仁の乱による戦禍を含め、度重なる罹災によって衰亡、現代の清閑寺は訪れる人がほとんどいない小さな山寺です。歴史を紐解いて、この場所のアピールをするとすれば、真っ先に紹介されるのが、平家物語にも記される小督局のエピソードでしょう。小督局は平安時代末期の女性で、その美貌と箏の技量から高倉天皇の寵愛を受けました。しかし高倉天皇にはすでに中宮がおり、その父親が今をときめく平清盛だったため、その逆鱗に触れ、清閑寺で出家をさせられてしまいます。悲嘆に暮れた高倉天皇は、死後は小督局と同じ墓に眠りたいと希望したともいいます。このあたりの経緯に取材したのが、有名な謡曲である「小督」であり、そのストーリーも広く知られることとなります。天皇が一人の後宮官女と同じ墓に入ることはありませんが、高倉天皇陵墓とされる後清閑寺陵の領域内にはいつ頃に建てられたのか、小督局の墓との伝承もある宝篋印塔が残されています。

[西郷×月照の密談]

この小督物語の他に、清閑寺にまつわるエピソードで有名なのが幕末に西郷隆盛が倒幕を志すようになった折、清水寺住職だった月照としきりに面会を重ねたのが清閑寺だったという話です。古くは清水寺にも匹敵する伽藍群だったともいいますが、応仁の乱を経て江戸時代、さらには幕末の頃になると清水寺の影に隠れるような、いわば現代の清閑寺とよく似た状況になっていたのでしょう、世間の目を偲ぶ密会場所としてはいい具合になっていたものと思われます。ちなみに、西郷が目指したこうした画策は、この段階では実を結ぶことなく、二人の入水という結末を迎えたのは、2018年度のNHK大河ドラマ「西郷どん」でも描かれていた通りです。

[要石のこと]

さて歴史トリビア的には、このようにさまざまなトピックが取り上げられるのですが、それでも現代の清閑寺に足を運ぶ人が少ないのは、清水寺拝観の正規ルートから外れてまで訪れる必然性を感じることが少ないからなのかも知れません。狭いながら境内の庭に一隅には、洛中を扇状に眺め下ろすことのできるスポットがあるなど、魅力がないわけではないのに、不遇な扱いとなっているのは事実です。ちなみに、その眺望スポットにある石には「要石」という名前が与えられており、いわゆる由緒のある名石として紹介されることもあります。ここでいう要石というのは、そこからの眺望に因み、石を扇の要に見立てての名前です。

[歌の中山ふたたび]

ところで、この文章の最初で清閑寺を「歌の中山、清閑寺」と紹介しています。この「歌の中山、清閑寺」とはいったいどういう意味なのでしょうか。中世の謡曲にも、すでにこのフレーズは用いられていますが「歌の中山」の意味は判然としません。判然としないまま、山の名前であるとか、小径の名前であるとか、はたまた清閑寺の山号であるとか、いろいろな説明がなされています。清閑寺の創建伝承には、観世音菩薩が女人の姿を借りて歌を詠み、開基となる真燕僧都に修行を促したというものがあります。そうした形での釈教歌で有名な中山というニュアンスで清閑寺の枕詞的になっているのが「歌の中山」という言葉なのかも知れません。清水寺を経由しないで清閑寺に向かうには、情趣の片鱗も感じられない国道1号線沿いを長々と歩かねばならない、清水寺経由であれば既定ルートから逸脱するほどの魅力に欠ける等々でなかなか足も向かない場所ですが、それだけに穴場感はたっぷりの場所です。ものの試しにぐらいでも一度は訪れてみてもよいのではないでしょうか