壬申の乱、平治の乱にまつわる伝説が残る京都・八瀬

京都・八瀬

叡山本線の終着駅である「八瀬比叡山口(やせひえいざんぐち)」。八瀬は観光雑誌にあまり載らないエリアですが、京都や日本の歴史に大きく変えた「壬申の乱」や「平治の乱」などでも多くの伝説を残しています。

天武天皇元年(672)に起こった皇位継承を争う「壬申の乱(じんしんのらん)」で、大友皇子(おおとものおうじ)の矢を背中に受けた大海人皇子(おおあまのおうじ)。八瀬の村人が献上した「かまぶろ」で手当てを受けたと伝承されています。この内乱で「矢」を「背」に受けたことから、このあたりが「八背」と名がついたともいわれているとか。1300年以上前の「かまぶろ」は、旧跡として京都市登録有形民族文化財に指定され、現在も「八瀬かまぶろ温泉 ふるさと」に残されています。

「平治の乱」にまつわる隠れた伝説とは?

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また、平安時代末期にあたる平治元年(1159)、平氏と源氏による内乱「平治の乱」に敗れた源義朝が馬に乗って飛び越えたとされる巨大な岩。義朝は馬とともに崖から転落するも奇跡的に無傷で、再び飛び越えることができたといわれています。「義朝駒飛石(よしともこまとびいし)」と呼ばれるその岩は、現在も高野川に架かる「駒飛橋(こまとびばし)」の下に姿を残しています。橋が覆っているうえにまわりには草木も多く、意識して通らないと見過ごしてしまいそうです。

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戦いに敗れた義朝一行を捕らえようと待ち構えていた多数の比叡山の僧兵らに、義朝のお供をしていた斉藤実盛がカブトを投げ入れて窮地を救います。「駒飛石」の上流あたりとされ、「甲ヶ淵(かぶとがふち)」と呼ばれました。昭和10年(1935)の大洪水でこの淵は消失しましたが、最寄りのバス停「八瀬甲ヶ渕(やせかぶとがふち)」にその名が残されています。

源頼朝ゆかりの「かけ観音寺(がけ観音寺)」

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叡電八瀬比叡山口駅から歩いて数分、高野川を見下ろし、旧敦賀街道に面した崖の上に立つ真言宗泉湧寺派の「かけ観音寺(がけ観音寺)」。先の「平治の乱」にまつわる頼朝ゆかりの寺とされています。

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当時は「千束ヶかけ(せんぞくがかけ)」と呼ばれるほど、急な坂が重なっていたという地。頼朝は先の「駒飛石」で生還できたことは日ごろより念じている観音様のお慈悲として、大きな岩に鏃(やじり)で観音菩薩像を刻み、源家の再興を祈願したとか。

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それを機に霊験あらたかな観音様として信仰を集め、昭和初期に創建。観世音菩薩をご本尊に祀り、いぼ・痔疾平癒祈願にご利益があるといわれています。ご本尊の観世音菩薩は秘仏とされ、通常拝観することはできないそうですが、頼朝の思いが伝わってくる気がします。

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真言宗泉湧寺派 真山 かけ観音寺(しんごんしゅうせんにゅうじは しんさん かけかんのんじ)
●京都市左京区八瀬野瀬町211 ●叡電八瀬比叡山口駅・京都バス停八瀬比叡山口前

いにしえより皇室とも深い関わりを持つ京都の奥座敷

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今回は、比叡山のふもと「八瀬」の地に残る伝説をご紹介しました。古来より独自の集落に住み、庶民でありながら天皇の御輿などを担ぐ大役を任されてきた「八瀬童子(やせどうじ)」や、八瀬から町へ炭や薪の行商に出ていた「小原女(おはらめ)」らが暮らし、今なお独自の風習やしきたりが根づいている地域といえます。