庭園の種別を表す普通名詞「石庭」が、龍安寺では固有名詞になります。そのくらい、龍安寺方丈の石庭は独自の重みを持ち合わせています。海外の目には、石庭を通して禅-ZEN-の世界が垣間見えるとも言いますが、日本人にとってはどうでしょうか。本堂の外に広がる鏡容池を舞台に味わう秋色と併せて、龍安寺をご案内します。
金閣寺から仁和寺に至る観光道路、いわゆる「きぬかけの道」に面する龍安寺もまた京都ではトップクラスの知名度を誇る寺院です。日本人がロンドンをイメージするのにビッグベンの時計塔を思い起こすのと同じように、欧米の人が抱くところの日本のシンボリックな景観の一つに龍安寺の石庭があるくらいですので、富士山やくいだおれ太郎に匹敵する存在感なのでしょう。
そうした龍安寺の創建は、他の有名な観光寺院に比べると遅く、応仁の乱で東軍を率いた細川勝元が大乱直前に妙心寺の義天玄承を招いて開いた宝徳2年(1450年)となります。そして応仁の乱。京都はそのすべてが焼き尽くされ、開かれたばかりの龍安寺もその例外ではありませんでした。それでも勝元の子、政元によって再建され、以後は織田信長や豊臣秀吉、および江戸幕府の庇護を受けて現代に至っています。
この龍安寺を語るにあたっては、何を措いても、まずは枯山水の方丈庭園、いわゆる石庭からのスタートとなります。作庭は龍安寺が再興された折とするのが有力ですが、諸説があって確定していません。また石庭が表現するものについても、さまざまな解釈が行われており、作庭時の思いと後付けの解釈との区別も難しくなるくらいの様相と呈しています。
よく紹介される代表的な解釈は「虎の子渡し」説です。なんでも母虎が3匹の子虎をつれて奔流を泳ぎ越える姿であるとか。子虎を対岸に渡すためには1匹ずつ咥えて対岸へ運ばねばならない、さらに3匹のうちの1匹は獰猛で目を離すことができないという条件をクリアしながら3匹を全部安全に渡しきるにはどうすればよいかという禅の公案のような話です。
ここで詳細を繰り返すのはやめておきますが、虎の子渡し自体が禅問答的なお話ですので、それと石庭の重ね合わせは、考えれば考えるほどややこしくなります。
古来、言われてきた「虎の子渡し」説がしっくりこないが故に、さまざまな代替案が提起されていると言ってもいいでしょう。
ほかにも、この石庭をめぐっては、15の庭石のどれ1つ隠れることなく見渡す場所は存在しないとか、方丈から眺めると庭が実際以上に広く見えるように塀の高さが奥ほど低くなっている(遠くに見える)とか、数々の豆知識が語られています。
そして、もう一つ、龍安寺を取り上げる際に強調されるのが、石庭の反対側にある坪庭に置かれている手水鉢、いわゆる吾唯足知の蹲踞(「われただたるをしるのつくばい」とも、簡単に「知足のつくばい」とも)です。中央に彫られた四角の水鉢を漢字の口に見せて、口を含む四つの漢字を四方に配するデザインの手水鉢です。石庭と蹲踞に象徴され、深遠な人生思想を説く謎の東洋思想”ZEN”をビジュアルで表現する場所として、龍安寺は海外で広く知られているようです。
さて、こうした龍安寺ですが、石庭にしても知足の蹲踞にしても、秋の魅力というと、少し方向性が違うようです。知足の蹲踞が置かれている坪庭は植え込みもあるので、そこに秋色を求めるのも一興ですが、龍安寺の秋は、本堂の外で楽しんでみてはいかがでしょうか。本堂の外に広がる鏡容池がその舞台となります。
鏡容池は、龍安寺の地に徳大寺家の別邸があった頃、寝殿造の池だったと伝わり、周囲には現在でも折々の装いを見せる木々が植えられています。秋なら紅く色づく11月下旬が見頃です。
石庭が有名になったのが昭和以降とも言われるのに対して、古くは鏡容池が龍安寺のシンボルで、おしどり池との異名もあったそうです。
なお鏡容池の真ん中には弁天島と呼ばれる小島があり、名前の由来となった弁財天を祀る祠が置かれています。噂によれば龍安寺の弁天様は嫉み深いので、カップルで訪れた時に無視されると怒り狂うのだとか。本当かどうかは試してみるしかありませんが、要するに鏡容池を散策した際に弁天島に立ち寄らないと、よくないことが起きるということのようです。ともあれ、石庭の方が、時空を超越した哲学的空間を呈するだけに、時の移ろいを堪能するのであれば、この鏡容池の散策がお奨めです。この鏡容池を念頭に、龍安寺は石庭のみにあらずとの理解にしておけばいいかと思います。
最後に、夜間拝観およびライトアップについて触れておきます。単純に何かを照らし出すだけではなく、白砂に光で描写をする照明なら石庭の深みも強調されそうです。しかし知名度が高いのに、ライトアップを行わない場所、その代表格がこの龍安寺です。